日吉の慶應で『Aria』の上映会●link。写真のシークエンスによる映像とモノローグ。
映像はすんなりと眼から自分の中に入ってくる。一方、発話されたモノローグはそうすんなりとは自分の中には入ってこない。解釈の過程でいったん滞る。しかし発話の速度は僕の解釈を待ってはくれない。幾つかは自分の中に入ってきて、その他はこぼれ落ちる。眼と耳が完全に分離しているような感覚。読むことと聞くことの違いがぼんやりと意識され、言葉と映像の受け止め方の違いが強く意識される。この映画を見たときに感じた戸惑いはたぶんこういうことだと思う。
映像と言葉が相互補完してたり、映像そのものがある意味内容を持った形で使われている側面(新聞、テレビ、広告、物語的な映画…)とはまた違う(あるいはそれらの要因となる)映像の寛容さ、いかがわしさ。その先を見たい。
予告編にもあった「コップのへりに今ここが写し出されている…私が見つめているので世界は私にまなざしを返す」って言葉が印象的。
(ん!?)と思ったトコロ、主人公の女性の写真のシークエンスのあとに、ほんの一瞬写し出されてた男の顔。